
京王電鉄の街づくりと新宿の物語 ~その先にある想い~
京王電鉄の街づくりと新宿の物語 ~その先にある想い~
| 今回7回目となるのゲストは、日本を代表する民鉄グループの経営トップである京王電鉄株式会社 代表取締役会長・紅村康さんです。40年以上にわたるキャリアの多くを経理部門で歩み、未曾有のコロナ禍という困難を経営者としていかに乗り越えてきたのか、その足跡を伺います。 また、京王グループと新宿という街の深い歴史についても紐解きます。空襲やオリンピックといった激動の時代を経て、いかにして現在の新宿駅の形が作られ、百貨店が誕生したのか。鉄道と街が共に歩んできた物語から、これからの街づくりに向けた想いを探ります。 |
- 番組名
- 『まちと移動のミライコラボ』全文書き起こし
- 放送日
- 2026年2月22日
- ゲスト
- 紅村 康 氏(京王電鉄株式会社 代表取締役会長)
目次
【オープニング】
石井: ラジオ大阪、街と移動のミライコラボ。Will Smartと街づくりのプロが描く日本のこれからです。よろしくお願いします。この番組では、移動と街づくりをキーワードに、日本の移動インフラや都市のあり方がこれからどう変わっていくのかを、第一線で取り組まれている方々と一緒に考えていきます。本日のゲストは、鉄道事業はもちろん、バス、ホテル、そして大型の都市開発プロジェクトにも携わっている、日本を代表する民鉄グループの経営トップです。本番組はWill Smartの提供でお送りします。
石井:今回のゲストは、京王電鉄株式会社 代表取締役会長、紅村 康さんをお迎えしています。紅村さん、よろしくお願いします。
紅村:はい、よろしくお願いします。
【経理部門から始まった46年の歩み】
石井:紅村さんは本当に多様な事業を手がけられています。鉄道事業は当然として、バス、ホテル、百貨店、不動産開発など、複数の事業を統合的に展開されています。まずは紅村さんご自身が、新卒から京王グループに入社されてどのようなキャリアを歩んでこられたのか、また仕事を通じてどのような仕事観を持つようになったのか、経歴について伺いたいと思います。
紅村:私は1980年入社ですので、もう46年になります。従業員として30年、取締役を5年、代表取締役を10年務めてきましたが、鉄道会社に入ったものの鉄道部門の経験は非常に少ないんです。入社当時に駅業務と車掌を経験しましたが、その後は鉄道部門に配属されることはありませんでした。従業員としての30年のうち、20数年が経理部門です。取締役になってからも経理部門の担当が長く、正直なところ経験の幅が狭いというのが私の経歴です。
【グループ会社への出向と百貨店の再建】
石井:そのような中で、経理部門から一つ転機となったのは、グループ会社への出向でしょうか。京王百貨店へ行かれた際のお話を聞かせてください。
紅村:入社当時に鉄道の実習が終わってから、京王百貨店に1年ほど行きました。その後、課長時代にも3年ほど出向しています。京王百貨店は非常に歴史があり、グループ内でもステータスの高い会社でしたが、当時は人事制度や福利厚生が手厚すぎて、それが会社にとってかなりの財務的負担になっていたのも事実でした。
【社長就任と予期せぬ困難】
石井:そうした経験を経て、京王観光の社長も務められ、その後グループ本社の社長に就任されました。社長としての約6年間は、どのような時間だったのでしょうか。
紅村:若い頃や経営幹部になった頃は、自分が社長になるとは思っていませんでした。最初の2年間は様子見という感じでしたが、世の中は平穏で会社の業績も伸びていたんです。しかし、社長になる直前に社長を務めていた京王観光で、不適切な事案があったことが後から発覚しました。私はそれに気づけないまま本社に戻って社長になってしまったため、メディアなどで随分と叩かれました。そのため、3年目からの1年間ほどは自粛モードのようになってしまい、正直なところ思うように動けませんでした。
【コロナ禍における経営判断】
石井:その自粛期間を経て、いよいよ対外的な活動を広げようとした矢先に、今度は世の中全体がコロナ禍に入っていったのですね。
紅村:本当にタイミングが悪く、ようやく通常通りの活動に戻ろうとしたところでコロナに見舞われました。それから2年半ほど、鉄道は乗る人が激減し、一時は半分ほどになりました。ホテルもお客さんが全くいなくなってしまいましたね。
石井:当時は経営者としてどのようなことを考えながら過ごされていたのでしょうか。
紅村:鉄道会社本体は比較的体力があったのですが、グループ会社には財務的に脆弱な会社もたくさんありました。特にホテル会社は従業員も多く、どこまで資金を繋ぎきれるかという、まさに足元のことばかり考えていました。将来のことまで考える余裕はなかなかなかったのが正直なところです。
【新宿の街と京王グループの深い歴史】
石井:そのような激動の社長時代を終え、現在は会長として「街づくり」というテーマに向き合われています。京王グループと新宿という街には深い歴史がありますが、改めてその歴史について教えていただけますか。
紅村:京王と新宿の関係でいうと、新宿の街は元々は「内藤新宿」といって、今の新宿駅よりも少し四ツ谷寄りの新宿三丁目あたりが中心だったんです。京王線は1913年に笹塚・調布間が開通し、そこから新宿三丁目あたりまで延伸してきました。
石井:京王線の起点はもともと新宿三丁目側だったのですね。
紅村:そうなんです。もともと新宿三丁目付近には路面電車が走っていて、当時は「市電」と呼ばれていました。それが半蔵門あたりまで通っていたため、京王線の沿線のお客さまを都心まで送り込むために、路面電車への乗り入れを考えて新宿三丁目まで線路を伸ばしていたんです。
【空襲とオリンピックが変えた街の形】
石井:そこから現在の西口側の新宿駅に場所が変わったのには、どのような経緯があったのでしょうか。
紅村:新宿三丁目へ行くには、JR(当時は国鉄)の線路をまたぐために坂を登らなくてはなりませんでした。しかし、昭和20年の空襲で変電所が被災してしまい、電車がその坂を登れなくなってしまったんです。それで仕方なく、手前の西口側にホームを応急で作ったのが今の新宿駅の始まりです。
石井:空襲という歴史的な出来事を経て、今の新宿駅の形ができていったのですね。
紅村:被災していなければ、今でも新宿三丁目に駅があったかもしれません。その後、1964年の東京オリンピックの際、線路沿いの甲州街道がマラソンのコースになるということで、線路が邪魔だという話になり、新宿駅を地下に移しました。地下化したことで地上部が空いたため、そこに京王百貨店を建てたという経緯があります。
石井:オリンピックのマラソンコースがきっかけで地下化され、その上に百貨店が立つ。まさに新宿の街の象徴的な場所が作られていったのですね。
紅村:地下に線路を潜らせる工事は相当な費用がかかりますから、国の支援もあったと思います。当時の地上部を活用して百貨店を作るという決断をした先人たちは、今から考えるとすごいなと思いますね。
【エンディング】
石井:今回は紅村さんのキャリアから新宿の歴史まで、非常に興味深いお話を伺いました。次回は現在進んでいる新宿の大規模な再開発プロジェクトについて、詳しく伺っていきたいと思います。紅村さん、本日はありがとうございました。
紅村:はい、ありがとうございました。
石井:今回の放送はradiko、当社YouTubeでご視聴いただけます。ぜひチェックしてください。この番組はWill Smartの提供でお送りしました。












